映画館に足を運ぶとき、これからみる一本が自分の人生を変える、とは言わないまでも、なにか少なからぬ 意味をもつのだろうな、という予感がすることがある。いや、むしろ確信に近いかもしれない。『復讐』以来、黒沢清監督の作品は、いつもそういうかんじで、ひとつひとつがなんとなく自分の転機と重なっているような気すらしてる。この日記を読み返しても、みてる映画みんな黒沢さんの影響下にあって、ただのミーハーだとわれながらおもうけど、でも、自分が物事を考えるうえですごく大事なものだってことは否定できない。今日みてきた『アカルイミライ』もやっぱりそうだった。クリーチャーはでてこないけど、これは怪物映画の系譜に位 置づけられる作品ではないかと思う。突き詰めて考えれば、まったく理解しがたい存在であるという意味においてクラゲも人間も怪物だ。妖女ゴーゴンのように、じっと黙っているのに、近づくだけで石になったり、猛毒で刺したり、存在を把握されたり拒絶されたりするのだ。その怪物の理解できなさを、克服も否定もせず、曖昧にではあれ受け止めていくこと、もし未来があるとすれば、きっとその先だろう。『映画は恐ろしい』において黒沢監督は、克服可能な恐怖をえがいた映画との差異において、ホラー映画を「"人生にかかわるこわさ"を主題として選びとった一連の映画群」と定義した上で、「私の人生を多少なりとも変えなかった作品などありはしないのだから、全ての映画はつまりホラー映画なのだ」とジャンル論を通 して無謀な結論にたどりつく。それもじっていえば、僕の人生を変えなかった人物などいないのだから、全ての人間はつまり怪人だ、ということになろう。勇気づけられる、という表現はまったく的確でないけど、不可解な現実は現実なのだ、という想いがかけめぐり、なんだか抜けた気がする。どこから抜けたのかすらわからないが、それはそれでよいのだろう。ところで、あのおしぼり工場の機械は、マングラーへのオマージュなんだろうか。見終わってからオフサイトへ。こないだマフラーを忘れたのだ。ちょうど進君がきていて、伊東さんとの蛍光灯・ドラムハードコアデュオの音源を聴かせてもらったのだが、これはおもしろかった。まるで、ノイズバンドというものがあるらしいからやってみよう、とスタジオに入ってしまった中学生のようだ。「ピュアIQ=0」の世界。これは是非、泉君にジャケットを書いてもらって、泉君と僕でブルタルな曲名をつけてリリースしたいと申し出たところ、伊東さんに苦笑いされる。進君と入れ替わりで秋山さんが登場、謎につつまれた時を過ごす。大阪でもブンさんのユーミンはやはりすごかったらしい。帰宅後、電話に着信があったので畠山さんに電話。『黄泉がえり』に感動した、という用件であった。『アカルイミライ』も含め、最近映画みると人生にひびくこと多いよね、というはなしをして、知り合ってもう10年以上たつ我々だが、出た結論はと言えば「映画って素晴らしい」よね、ということに尽きた。大学院の博士課程で映画学を専攻している畠山さんの発言としてどうなのかは判断しかねるが、でもまったくそうだと思う。で、明日『呪怨』を一緒に見に行くことにした。なぜってテアトル新宿は水曜1000円ではいれるからだ。