KYTN

先週参加してきたスコットランドDundeeのフェスティバルKYTN、いまだ衝撃が抜けきれません。4日間ワークショップがあって、そのあと3日間パフォーマンス。ワークショップはフランスのLoic BlainonとMarc Baronと私の三人で1グループ担当していたのですが、進行役のワークショップリーダーのひととまったくかみあわず予想以上に苦戦。一時は降りかけるとこまでいってしまったけど、最終日さらに紛糾した結果ワークショップ崩壊。全員ばらばらになって学生さんとひとりひとりお話することにしたら、これがほんとに楽しく、充実した時間を過ごせて素晴らしい経験でした、と結果的には言えました。で、週末のパフォーマンスがどれもすばらしくて、成果のわかってるものを持ってきましたという人が皆無。実験音楽のフェスティバルと称するものもいろいろ観てきましたが、ここまで字義通り実験的であり、賭けにでてるというものはほかにないように思われました。全部は記述しきれないけれど、特に強烈なのを思い出しておくと、こちらは映画の上映ですがまずモーガン・フィッシャーさん。同名のキーボード奏者とはまったく関係ありません。60年代から作品を作り続けている実験映画の方で、不勉強ながらいままでまったく存じ上げなかったのですが、これは衝撃をうけました。映写技師に「フレームを上に、ピントをぼかして」「ボリュームを下げましょう」といった映写機操作の指示がでる“Projection Instructions”、「このあと11分間時計をご覧いただきます」という字幕がでたあと時計が11分間映る“Phi Phenomenon”、本人が画面にむかって時間をどう分節化するか説明しながら、そのとおりに映像と音がそれぞれオンオフするだけの“Picture and Sound Ruses”など…、超単純なアイディアながら映画の原理を突きつけられるような作品ばかり。今回みれたのは60〜70年代の作品ばかりだったので、最近のもぜひ観たい!ご本人も会場にいらっしゃったのですが、シルクハットの似合うかっこいい紳士でした。あんまり情報が見つからないんだけど、日本で上映される機会はいままであったのでしょうか?
それからわれらがMattin。会場は真っ暗で、ステージには幕。観客が席についてしばらくすると、幕がザッとあいてステージ用の強烈な照明が客席にあたる。向こう側には椅子にすわったマッティンがこちらをみている。パフォーマンスの内容としては…それだけ。要するにステージと客席の関係を反転させるというコンセプト。しばらくすると人々が荒れ始め、何人かはマッティンの横に椅子を持っていって座ってこちら側をみはじめたり、最後尾の人が壁側に向いてたり、大きな花の髪飾りをつけたブロンドのお姉さんがマッティンの膝にのっかったりとめちゃくちゃになってしまった。スタッフの人が全部片付けはじめて終わってしまう。結局マッティンはこちら側をみていた以外なにもしなかった。
Loic Blairon。どこでも哲学論争をおっぱじめてしまうなかなかの曲者ですが、やってることも面白かった。黒板にチョークで「このパフォーマンスのトートロジーは黒板の上のチョークであるべきです」といったようなことをかいて、バタンバタンと倒していってた。
Jarrod Fowler。元々はパーカッション奏者だったようですが、リズムについて探求を重ねた結果、日々生活することがリズムではないかという悟りに達したらしく、フェス期間中もうろうろしていただけ。パフォーマンスの持ち時間すら放棄して、会期中に育てていた野菜やハーブをご自由にお持ち帰りください、としていた。植物やバクテリアについても豊富な知識を持っていた。彼の仕切っていたワークショップは、みんなでどこかに一緒にでかけるだけだったらしい。だれもいない部屋で延々ぐるぐる回っていたり、かなり謎が多かった。
あと最後にMattinがNoise & Capitalism編集メンバーとやったのは、幕で覆われた空白のステージを用意して、客もパフォーマーも区別なく同質の気まずさを共有するという踏み込みすぎてわけがわからなくなった内容。
そんな状況だったので私は私で追いつめられまして、一世一代の芝居に打って出まして、これは我ながら前代未聞だったなぁ…とおもっています。言葉で説明しちゃうとあまりにバカバカしいので、いずれ国内でも同趣向のものがやれたらいいかも。