R.H.の手記

今日は新作のプロモーションのために来日しているソクーロフとの対談が予定されている日だった。死についてもっとも先鋭的な思考を続けている男と会う 以上、こちらもそれなりの心構えで出向かなければなるまい。トンネルを抜けると墓地だった。ソクーロフは既に会場の青山霊園で、白の着物に三角巾という いでたちで墓地の風情に浸っていた。早くも一本取られたが、こちらも負けていられない。木陰で落武者の鎧兜に着替えてさっそうと登場するつもりがうっか り馬鹿には見えぬ鎧を装着してしまったせいで、会場のほとんどの人間には裸と思われる羽目に陥った。さすがにソクーロフは私のオーラを察知し、「なかな かエキセントリックな出迎えだね。有り難う」とにっこり微笑んでくれた。スパシーバスパシーバ。どういたしましてパジャールスタ。一流の人間だけにわか る暗号を目線に乗せて見つめあい、堅く握手。ハットリの「ハ」がうまく発音できないようだ。私を一発殴って気付け。驚いたソクーロフは上手に「ハット リ」と言えるように。頭の悪い映画好き、頭の悪いロシア好き、私のファン、私の敵、青山霊園の地縛霊を観客に対談が始まる。 「私たちは死についていつも考えています」 「私にもそうした時期はありました。しかし、ここ十年ほどは違ったやり方で考えるようになっています。」 「そんなことは聞いていない!!私たちは死について考えていると言ったんだ。錨を下ろせ!!」 「僕の『エルミタージュ幻想』はご覧になりましたか?むしろハットリ、音楽評論家のあなたはワレリー ・ ゲルギエフの起用についての感想を伺いたいのですが。」 「まあいいんじゃないの?俺の話聞いてる?」 「・・・・・・・」 「ところで、あなたはセックスが長いといううわさですが」 「あなたは、私をどうしたいのですか?荒野で悪魔の誘惑を受けたキリストのような振るまいを私に要求しないでください。それはとても大きな苦痛を伴いま す。お願いですから」 「じゃあ死について語ろうじゃないか」 「ごらんなさい、雨が降り出しました。美しい。確かに死のイメージが深くつきまとっていました。でもそれはある時期のことなんです。国家の死を経た後に 死が忘却される時代が来るのではないか、という予感に突き動かされた時期があったのです。」 「これは鼻血だよ」 「・・・・・・そうですね。つまり、生命を支える力によってこそ、何かが・・・・」 「鼻血だよ。」 「鼻血ですね。」 「魂の不滅を信じますか?」 「・・・もちろん。」 「鼻血の不滅は?」 「信じますよ。あるやり方ではそれは不滅です。」 「こんなやり方?(逆立ちして脱糞)」 「ちょっと違います。・・・・日本人はみな疲れている。」 「馬鹿にするな!!これが俺の魂だ!!(ギターでノイズを大音量 でかき鳴らす。感動で失禁する)みろ、アンチロックの極限をまさにロック的手段でなしと げたのさ。きけ、俺の発明したチューニング「開け!アドルノの肛門」!!」 「恐ろしい。そうしたテクノロジーの進歩、ショックに慣れきってしまった社会、そうした社会でこそ死が失われて行くのです。私こそあなたに聞きたい。あ なたは何かから逃げている。そして、何かでその空隙をうめようとしている。何を恐れているのですか?」 「ママだ!!嘘だ!!俺だ!!!それも嘘!!!嘘で塗り固められた俺の人生だ!!!やっぱ嘘!!!俺がハットリであるということ。おまえもハットリかも しれないということ。世界がハットリかもしれないということ。ハットリがウイルスかもしれないこと!!!俺の無限増殖!!ゴムのように伸びる俺の自 我!!間男の噴死!!などなど!!!」 「シェーンベルグを聞くべきです。いや、私のワグナーの使い方をもう少し理解して欲しい・・・・」 「全部嘘だ!!ホントは大ファンなんだ。触ってくれ!!撫でて!!救って!!触るだけでいいから!!!」 「私を解放してもらえますか?」  ソクーロフ側のエージェントが主催者に泣きつき対談は無事終了。私は死についての話題を回避するソクーロフをこらしめるために恐怖スポットにつれて行 くことを思い立った。羽交い締めにして車に乗せ、老婆をはね飛ばしながら時速100キロで新潟に行き、親子がかならず生き別 れるという海沿いの崖道を訪 ねる事にした。もう少しで到着というところで、カーブでハンドルを切り損ない崖下に転落してしまった。車はぺしゃんこになって私たちは車に閉じこめられ てしまった。鼻血が止まらない。大けがをしてしまった。うそだ。鼻血はずっと出ていた。つまり私は無傷だ。それにしても大笑いだ。ホラースポットを探検 するつもりが犠牲者になってしまうなんて・・・・。ひしゃげてしまって出ることもかなわない車の中で、彼氏に鼻毛を発見されてしまった少女のように真っ 赤になってうつむいていると、そんな私の気持ちを慮って彼はロシアの民謡を歌ってくれた。やや元気を取り戻した私は、お返しにRUIの「泪月」を歌って あげた。気付くとソクーロフは下半身が車に挟まれて身動きが取れないようだった。すき間から血があふれているようだった。見えない鎧兜を着た私のいる運 転席まで血が流れてきたので解った。苦しそうにしていないので全然気付かなかったが、声も掠れていた。真っ暗な中でソクーロフは誰にともなく話しだした。 「ついに来るんだな・・・・。いつもこの瞬間のことだけを考えていたよ・・・・。確かに僕の映画は死がテーマさ。そのことを考えずにいられるかい?僕は 夜布団にはいるといつもそのことを考えるよ。死にたくないけど死ななきゃいけない。仮に永遠の命を想像してみても死ななきゃ死なないで宇宙の終わりが やって来る。結局毎晩手詰まりさ。ちっちゃい時はそれでめそめそ泣いたりもしたっけ・・・・。シベリアにいた時さ。寒いんだぜ。知らないだろう。イルク ーツクって街さ。・・・変なことを考えすぎる時は、親に内緒でこっそりペチカの火を落とすのさ。寒さのせいで気が紛れるんだ・・・・。それでこっぴどく 叱られたこともあったよ。それはそれで気が紛れるからいいのさ。そういうことを考えていなさそうな映画も、結局はそれを考えているんだ。考えない振りを しているってのとは少し違う。考えないことが考えることなんだ。そういう境地もあるってことを君も知ったほうがいいよ。魂の不滅を信じている?もちろん さ、でもそれとこれとは別さ。ああ、ついに僕にもやってくるんだな。・・・・・・・・・・あーあ・・・・・・・・・・・・。あーたまんないな、この感 じ。・・・・この着物はオストラウームニエ─失礼、ウィットのことだよ─のつもりで着ただけなのに。こんなことになるなんてシャレにならないよ・・・・」  着替える必要がなくて良かったじゃないか、と言おうとしてやめたが、そんなことないよ、頑張ろうという気にもなれなかった。特に落ち込んだり恐怖して いる様子は無かった。ただ、恐怖とは別の何かに耐えているようだった。軽く口を開いたような表情のままで、前方の一点を見つめていた。互いに流血しなが らソクーロフと私は二人でぼんやりと闇を見ていた。するとあたりにもぼんやりがつたわったようにふっと明るくなった。気がつくと空一面 を覆わんばかりの 数の鬼火が飛び交い、海を青白く照らしていたのだった。この崖で命を失った親子達だろう、勢いよく方向を変えるたびにロケット花火の泣き声のような音を ひゅんひゅんきんきん立てるのだった。それはときおり私たちのすぐ近くまで飛んできたが、急旋回する時に立てる音は遠くから聞こえてくるように響いた。 その音に重なって水平線の方からあーとかうーとかいう声も聞こえてきた。苦しそうでも悲しそうでもなく、そもそも人の声でも無いのかもしれなかったが、 それは凍ったような振動を空気に与えていた。そしてさらに試験映像の音声を弱くしたようなうわーんという振動があたり全体を包んでおり、私たちはさなが ら大きな鐘の中にいるようだった。海面のすぐ下にも何かがたくさん動いており、ときおり白いさざ波を立てていたが、それ何なのかはよく分からなかった。 こんな時でなければ縮み上がるか大笑いするかしただろうが、私たちは黙って、海の上の白い光と海の中の蠢く黒い影をひびが入ったフロントガラス越しに見 ていた。あたりをつつむ音は生まれてから最初に聞いた音に似ていた。そんなもの覚えているはずも無いのに、確かにそれはそうなのだと思った。始まりの音 の中で、お互いの顔が青白く照らされていた。不思議なことに影は全く出来ていなかった。車の中を含めたあらゆる領域がぼんやりと青白く照らされているの だった。ひょっとしたら私たちも光っていたのかも知れない。 「こういう光景を日本ではなんというんだい。ガットリ」 「彼岸だよ」 「ウイガン?ギガン?」  再び自らの鼻面にきついアッパーカットをいれ、発音を矯正してあげる。 「そうか。これが日本の彼岸の風景か。」 「これは鼻血だよ」 ホントは私たちはもうあの世に来ているんじゃないだろうかと思い始めた。あれは歓迎の光なのだろうか。そうだとすれば私が彼に気を使う必要も、彼が私に 気を使う必要ももうない。お互いに失うものはもう何も無いのだから。そう思うと気が大きくなって、ソクーロフに本音が言いたくなってきた。  「・・・・・・ほんとは君のメシアンの使い方には納得いってないんだ。モーツアルトの次に使うなんて、新しい聞き方には違いないと思うけど、ちょっと うがち過ぎじゃないか。・・・・それに、モーツアルトが醜男だったかどうかなんて、わざわざナレーションでいう必要あるのかい?そりゃ、君には君の考え があるだろうし、それは最大限に尊重されなきゃならない。でも僕はやっぱり音楽評論家だし、そこら辺はどうしても気になっちゃうんだ。・・・悪く思わな いでくれよ。この意見も、さっきの悪ふざけも。照れてただけだったんだ。」  「・・・わかるよ。気を悪くなんかしていない・・・。君の立場から見たらそうなんだろうし、それは絶対的なことだ。そういうのは極力大事にしなければ いけないよ。チェチェンで撮影していた時はずっとそういうことを考えていたよ。僕らの考えも絶対的だし、彼らの考えも絶対的なものだ。チェチェンの兵士 達が捕虜を切り刻む映像がインターネットで世界中に流れたけど、あれだって一つの絶対を表しているのさ。そして、もっと大事なことはあれが映像だってこ とさ。みんな血が流れたって言うけど、あれは白黒映像だぜ。そこで流れている液体は黒いんだ。赤じゃない、黒なんだ。黒い血が流れもするのが映像なん だ。さっき自分の不死を想像するって言ったよね。死は想像が生まれる場所でもあるんだ。それは創造で、誕生そのものなんだ。だから、黒い血に人は生命を 見なければいけないんだ。逆に言えば想像は死を孕んでいる。生は死の堕胎なのさ。命が失われると死ぬ 。でも命が失われるという出来事は生きても死んでも いないんだ。それもまた絶対さ。あの映像は一つの絶対に過ぎなくて、それは実際にチェチェンで起こっている悲惨さなんか、何一つ伝えちゃいないん だ。・・・そんな考え方をするのは恐ろしいことだって人は言うかもしれない。そうさ、それこそが「恐ろしいこと」なんだ。・・・・でも・・・・・・人が そのことに恐怖することを知れば、あるいは・・・・・・」  ソクーロフはそれ以上言わず、下を向いてチョールヌイチョールヌイとぶつぶつ呟いていた。私も鼻血をぼたぼた垂らしながらじっと海に見入っていた。と ころで、君は僕の作品を全部見てないだろう?ソクーロフはおもむろに言った。ばれた。誤魔化すために、今の話を一貫したものにするためには、あなたの 「絶対」と言う言葉の使い方をもっとはっきりさせなくてはダメだといおうとしたが、やめた。そんなものは何よりもはっきりしていたからだ。死について ちゃんと考えていたのはやっぱり彼の方だったのだ。こんな時になってやっとお互い本音で話せるなんて。いいんだよ、人が話しあうにふさわしい距離っても のがあるんだ。とソクーロフは言った。またしばらく黙っていたが、それは絶対的なことだ、と小さく繰り返した。うわーんという音が、音量 をあげないまま 大きくなってきたような気がした。鬼火はますます活発に動いていた。きんきんいう音も大きくなった。その音を聞きながら、昔の人は鬼火を精子に見立てて 想像したのかもしれないと思った。じゃあ今飛んでるのはなんだよって事になるが、ともかく、その音を聞いていると少し楽になった。光が増して水面 の下で 動いているものがさっきよりもよく見えた。大きな魚のような影のあいだで揺れているものは、人の手だった。無数の手が水面 を下から引っ掻いていた。海に 沈んで何百年も経つうちに、手がここまで伸びてきたのだろうか、白い白い手だけが、黒い水底から生えてきているのだった。キーンという音の中で海に揺ら れる手を見ていると、何だか悲しくなってきた。「少なくとも・・・・」「えっ?」「少なくともこうした会話は残るんだ。残らないけど残るんだよ。これも 出来事さ。」「でも・・・・もっとはやくこうやって・・・・・」「僕がいて君がいて、何かが行われた。君は本当のことを言ってくれたね。僕も本当のこと を言った。そのことは正しくもないし間違ってもいない。死を前にして初めて何かが行われ得るとするなら、その無駄 は無駄である限りで無駄じゃないん だ。・・・それは瞬間の判断といったようなもので・・・・・それがどのようなものであれ、それを背負わなくちゃいけないんだ・・・・」車内がひときわ明 るくなった。ソクーロフの流した血から、蛍のように小さな光がたくさん立ち上っているのだった。私の青白い鼻血からも、いくつか光の粒が旅立って行っ た。ソクーロフは気付いていないようだった。見ろよ、僕の血も青く染まっているじゃないか、と冗談ぽく言った後、あー、たまんないな、と再び言った。そ して、今まででいちばん長い沈黙が訪れた。私は鼻血と涙をぼたぼた垂らしていた。ソクーロフは、日本人はみんな魚だ、と小さく呟いた。それきり彼はしゃ べらなくなった。彼の方は見なかった。見るともっと激しく泣きだしてしまいそうだったからだ。なり止まぬ 青い振動に貫かれ相変わらず彼と並んで海を見て いた。やっぱり涙が出てきてしまった。誰に見られているわけでも無いのに、私は極力無表情でいようとした。ちょうど彼がそうしていたみたいに。鬼火が一 つまた一つと私の涙に吸い込まれてゆき、音も光もどんどん弱くなっていった。海中の手はどんどん頼りなげになってゆき、ほっそりと消えてしまった。ほど なくして当たりは真っ暗になった。きーんという音と波が打ち寄せる音だけが、暗やみを貫いていた。私は相変わらず海を見ていた。  次の朝、借金取りが私の体に仕込んだ発信機のおかげで私たちは無事救助された。バスタオルを被りコーヒーをすすっているとソクーロフが救急車に運び込 まれていった。下半身が無くなっていた。彼は一足先にロシアに帰っていたのだった。一月ほどしたある日、朝刊でソクーロフの次回作がクランクインしたこ とを知った。短いインタビューが載っており、それによると、新作は友人の死に捧げられているとの事だった。