デンツラー氏の義理のお父さんは考古学者で、かつてレバノンで発掘作業をしておられたそうな。その足跡をたどるというので、同行してみることに。まずはベイルート市立博物館へ。建物が異様に立派で、そんな金あるなら先に道路を整備しろというかんじ。この博物館、展示品がたいへん貧弱で、がっかり度100パーセント。ちなみに裏には競馬場があって、戦争中も砲弾の飛び交う中、馬が走らされていたという。そこからタクシーでデンツラー氏ゆかりの地へ向かう。ちなみにベイルートではタクシーにメーターはなく、値段は常に交渉制。結構長いこと走った挙げ句、その地は今となってはどこだかわからなくなってるらしい。でもまぁ景色がいろいろ見れたのでよかった。で、例によってシャリフ宮殿だ。中にいると無軌道な若者達がダラダラしていていたたまれなくなるので、門番のおじさん、イブラヒム・アライェス氏と話し込む。子供が五人いて、もうすぐ二人めの孫ができるとのこと。シフトは夕方6時から翌朝8時までで、年にもらえる休みは22日だ。戦争のはなしをきくと、砲撃で死ぬのも神に連れていかれたからだよ、といわれる。人生を蝋燭にたとえておられたが、どう考えても強制的に吹き消されているように思うんだけど、長いこと戦争があるとそういう考え方にならざるを得ないのかもしれないナァ。さて、フランツがマザンの家に戻るというので同行してみる。フランツ、なんと飛行機の日付けを一日間違えていて、今夜出発だとこの時点で気付いていた。いそいで荷造り。マザンといろいろ話す。彼は1975年、戦争がはじまった三ヶ月後に生まれたという。なので、ものごころついたときには空から爆弾が降ってるので、空というのはそういうもんだと思っていたらしい。戦火がはげしくなると学校にいかなくてよいのでうれしかったそうだ。で、シェルターの中とかでさんざんフランスの漫画を読み続け、それまでレバノンに漫画家は一人も存在しなかったにも関わらず、自分だけでまんが道を歩むことを決意したとのこと。音楽も、五年前まで楽器もなにもさわったことなくて、フリージャズにであっていきなしトランペットをはじめたそうな。しかも、そこでフリージャズをやろうとはせずいきなり自分の音楽を追求しはじめるところがスゴい。一人しかいないんだから、ローカルなシーンとか、そういうレベルじゃないのになぁ。今回のフェスティバルで強く思ったけど、フランスの若者たち、マザンとくらべたら情報量はぜんぜん多いはずだけど、自分たちはこういうグループだから、こういう演奏してればよい、みたいな甘えがあるような気がする。その辺マザンはもう突き抜けちゃってますわ。それから、今は発禁になっているというレバノン内戦写真集をみせてもらったが、これはさすがにキツかった。車で死体を引きづりまわしたり、ジェノサイドの後兵士がシャンパンをあけていたり。マザンがいちいち、これがあの通りでこれがあの建物だと教えてくれるので生々しさ倍増! それからまたシャリフ宮殿に戻って、フランツやデンツラー氏と別れを告げたりして、僕らもジャッセム家に戻って寝る。